夜の十一時。
ソファに深く沈み込んだまま、
あなたの親指は、
意味もなくスマホの画面をなぞっている。
見たいものが、あるわけではない。
ただ、指が勝手に動いているだけだ。
ふと、暗くなった画面に、自分の顔が映る。
——ずいぶん、疲れた顔だ。
今日一日で、あなたは
いくつの判断を下しただろう。
仕事では何度も判断を求められ、
家に帰れば家族としての役割が待っている。
年下の上司からは、
今日も淡々と、指示が飛んできた。
家に帰れば、
「また出しっぱなし」と小言を言われ、
子どもは自室のドアを閉める。
誰かに必要とされているはずなのに、
ふと、自分だけが
取り残されたように感じる夜がある。
もう何も考えたくない。
スマホの光に、頭を預けてしまいたくなる。
その気持ちは、痛いほど分かる。
——こんな夜に、ふと思うことがある。
自分のための時間が、
何かひとつくらい、あってもいいのではないか、と。
昔は、好きだったはずだ。
長く使える、良いもの。
美しい道具。
職人の手が入った、確かなもの。
あのころの感覚を、どこかでまだ、覚えている。
だが、いまさら
「趣味を持て」と言われても、困る。
休日を溶かすゴルフも、
金を注ぎ込む車も、
道具をそろえるキャンプも、
たぶん、いまのあなたには重すぎる。
新しく背負うだけの余力は、
もう、残っていない。
かといって、何もしなければ、
夜はまた、スマホの光に溶けて、消えていく。
要るのは、たぶん、もっと軽いものだ。
大きな決意も、まとまった金も、休日も要らない。
すり減った夜に、そっと差し出せるくらい、
ちょうどいい何か。
そしてそれは、強い刺激ではなく
——静けさのほうにある、
と僕は思う。
今夜は、その“ちょうどいい”一本の話をしたい。
誰にも判断を求められない、
自分だけの静かな時間の話を。
万年筆を40代からの趣味として
勧めたい理由は、単純だ。
一人でできる。
五分から始められる。
大きな場所も準備もいらない。
そして、ただ消費するだけでなく、
自分の内側に何かを残してくれる。
万年筆は”ただの”嗜好品ではない。
心を整える「構造」である。
先に、断っておきたい。
これから万年筆の話をするが、
僕は、高級な趣味やコレクションとして、
それを語るつもりはない。
値段の話でも、所有欲の話でもないのだ。
僕は以前、家具の設計を生業にしていた。
来る日も来る日も、
良い椅子とは?
良い家具とは?
ということを考えていた。
やはり、人が触れ、長く使う道具には、
「用の美」というものが宿る。
使いやすさを突き詰めた先に、
自然と立ちあがってくる、
あの静かな美しさのことだ。
その視点で万年筆という道具を眺めると、
面白いことに気づく。
万年筆は、ただ美しいだけの道具ではない。
それは、握る手から、
力を抜かせる構造を持っている。
ボールペンは、多少乱暴に扱っても、
びくともしない。
強く押しつけても、平気で書ける。
だが、万年筆は違う。
ペン先は驚くほど繊細で、
力を込めすぎれば、
たわみ、傷んでしまう。
だから書き手は、否応なく、
手の力を緩めることになる。
その道具は、
僕たちに優しく持つことを求めてくる。
これは、欠点ではない。
一日じゅう、肩をいからせ、
奥歯を噛みしめて戦ってきた身体に、
「もう、力を抜いていい」と、
道具のほうから、そっと教えてくれる。
そういう仕組みなのだと、僕は思っている。
そして、もうひとつ。
昼間、あなたが
タスクを片づけるために握ってきたボールペンは、
いわば「戦闘モード」の道具だ。
速く、正確に、こなすための。
その手を、夜、万年筆に持ち替える。
ただそれだけの動作が、昼と夜のあいだに、
一本の境界線を引く。
——ここから先は、
処理する時間ではない。
自分に還る時間だ、と。
道具を持ち替えることは、
「戦闘モード」を降りて、
自分に還るためのスイッチである。
大げさな道具立ては、要らない。
ただ、持ち替えるだけでいい。
この「軽さ」こそ、万年筆が“ちょうどいい”と、
僕が思うひとつの理由だ。
使い捨てではない道具を扱う「所作」が、自分を丁寧に扱う感覚を取り戻す
家具の設計をやめたあと、
僕は、福祉の現場にいた。
福祉の仕事に携わるなかで、
人が何かを続けることは、
意思の強さだけではどうにもならないと
感じる場面を、何度も見てきた。
そして、もうひとつ、
静かに湧き上がった想いがある。
自分自身を、ぞんざいに扱っている人が、
自分に誇りを持つことは、たぶん、できない。
逆もまた、そうなんだ。
自分を丁寧に扱えたとき、
人は、ほんの少しだけ、背筋が伸びる。
道具の話に、戻る。
使い捨てのペンは、
無くしても、壊れても、痛くもかゆくもない。
だから僕たちは、それを無造作に扱う。
そして、その無造作さは、気づかないうちに、
自分自身への扱いに、静かに重なっていく。
繊細な万年筆は、そうはいかない。
インクを入れ、ときどき洗い、
落とさないように、そっと置く。
手間がかかる。
正直、面倒だ。
だが、その面倒を引き受け、
ひとつの道具を丁寧に扱う所作そのものが、
実は、上等な「自分へのもてなし」になっている。
一日、他人のために消耗したあなたが、
夜、たった一本のペンを、
自分のためだけに、丁重に扱う。
それは、思っている以上に、
深いところで効いてくる。
——少しだけ、僕自身の話をさせてほしい。
僕は生まれつき左利きだった。
だが幼いころ、
右手で書くように、無理やり直された。
確か小学校で
習字の授業が始まったからだと記憶しているが、
定かではない。
今はそんなことさせられないだろう。
だが、当時の僕には、こたえた。
自分のいちばん自然なやり方を、
頭ごなしに、否定される。
子どもながらに、
ひどく傷ついたのを覚えている
それでも僕は、なけなしの意地で、
右手で文字を書いた。
ある日、書いたその字を、先生が褒めてくれた。
ただ、それだけのことだ。
だが、うつむきがちだった僕の背筋が、
そのとき、確かに少しだけ伸びたのを覚えている。
少なくとも僕にとって、書くことは、
自分を少しだけ肯定できる行為になった。
それを理屈ではなく身体で知ったのは、
たぶん、あの日だったのだと思う。
夜、自分のためだけに、
静かにペンを走らせる。
その時間が、すり減った自己敬意を、
一日にほんの少しずつ、埋め戻していく。
派手な回復ではない。
だが、確かな回復なんだ。
手間はかかる。
けれど、その手間ごと、
夜の片隅にそっと置いておけるくらいに軽い。
軽いのに、こんなにも深いところへ届く。
——その不思議を、もう少しだけ、先で確かめたい。
1日5分、ノートに向かい
「ありたい自分(To be)」と対話する
とはいえ、身構える必要は、まったくない。
きれいな字を書く必要はない。
立派な日記を、残す必要もない。
やることは、ただ、一日五分。
ノートを開いて、いまの自分を、
そのまま置いていくだけだ。
昼のあなたは、いくつもの顔を持っている。
中間管理職の顔。
父親の顔。
夫の顔。
その、他人のための顔を、
五分だけ、ぜんぶ脱いでしまう。
役割を降りた、ただの自分に還る。
それが、この時間の、本当の意味なんだろう。
とはいえ、何を書けばいいのか、
分からないかもしれない。
だから、いくつか、簡単な目安を置いておく。
うまくやろうとしないための、
ささやかなルールだ。
・スマホは、通知を切ってから、
画面を裏返して置く。
外の世界を、いったん手放すために。
・出来事の報告ではなく、
「今日、どう感じたか」を一行だけ書く。
うまい下手は、いっさい問わない。
・「何をしたいか(To do)」ではなく、
「どうありたいか(To be)」を、
ひとつだけ書き添える。
たった、これだけだ。
五分が経ったら、ペンを置いていい。
もっと書きたければ、書けばいい。
書けなければ、明日の自分にバトンを渡せばいい。
それも、あなたの自由だ。
大切なのは、量ではない。
誰の評価も求められない場所で、
自分の内側と、静かに向き合った。
その事実のほうが、ずっと大きいのだと思う。
「なりたい自分」に焦るのを、
少しだけ、やめてみる
僕たちは、いつも
「なりたい自分」に、追い立てられている。
もっと成果を。
もっと評価を。
あの年下の課長に、負けないように。
——そうやって走り続けて、すり減ってきた。
「なりたい自分」とは、
何かを成し遂げた自分のことだ。
だが、夜の五分に、
ノートの前で取り戻したいのは、
たぶん、それではない。
成し遂げた自分ではなく、「ありたい自分」。
さっき書き添えた、
あの「どうありたいか(To be)」のほうだ。
ただ、こうして静かに佇んでいる、
その姿そのものの、落ち着き。
「凛とする」とは、
きっと、そういうことなんだろう。
声を張らず、誰かと競わず、
ただ、自分の信念に、背筋を伸ばしている。
そういう、静かな状態のことだ。
なぜ、この一本が“ちょうどいい”のか
ここまで読んで、こう思ったかもしれない。
それなら、ノートと安いペンでも、
いいのではないか、と。
その通りだ。
ただ書くだけなら、道具は選ばない。
それでも僕が、あえて
万年筆を勧めるのには、理由がある。
すり減ったあなたに、
これがいちばん“ちょうどいい”道具だと、
思うからだ。
思い出してほしい。
休日を溶かす趣味も、
金を注ぎ込む趣味も、
いまのあなたには重すぎた。
かといって、何もしない夜は、
スマホの光に溶けていく。
万年筆は、ちょうど、そのあいだにある。
一日五分。
持ち物は、ペン一本と、ノート一冊。
それだけだ。
大きな決意も、
まとまった金も、
休日も要らない。
それくらい、軽い。
だが、軽いのに、深く効く。
繊細なペン先が、
こわばった手から、力を抜かせる。
丁寧に扱うその所作が、
ぞんざいに使われた一日から、
あなた自身を、丁重にもてなす。
そして紙に置かれた一行が、
削られた自尊心を、静かに書き戻していく。
たった一本のペンが、
この三つを、同時にやってのける。
力を抜き、
自分をもてなし、
自分を、書き戻す。
これほど小さな道具が、
これほど深いところまで届く
——そういうものを、
僕は、ほかにあまり知らない。
だから、万年筆は、
”ただの”嗜好品ではないのだと思う。
それはたぶん、
すり減った大人が、自分に還るための、
いちばん無理のない「構造」なんだ。
40代からの、自分を整える趣味として——
これ以上“ちょうどいい”ものを、
僕は、うまく思いつけない。
今夜も、あなたは疲れているだろう。
それでも、
ほんの少しだけ背筋を伸ばして、
繊細な一本を手に取り、
ペン先を、そっと紙の上に置いてみてほしい。
うまく書けなくて、いい。
五分で終えて、いい。
ただ、その静かな時間の中で、
あなたは、誰のためでもない自分に、
もう一度、還っていく。
それでいい。
少なくとも、僕は、そう信じている。

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