「また、三日で終わった」
ノートを閉じ、
あなたは短く息を吐く。
そして、
いつもの結論にたどり着く。——
自分は、やはり意志が弱い、と。
だが、その結論を出す前に、
一つだけ確かめてほしいことがある。
いま、あなたが
そのノートに走らせていたのは、
どんなペンだったか。
もしそれが、昼間の会社で、
見積書やメールの下書きに使っている、
あの一本と同じものだったなら。
続かなかった原因は、
あなたの根性ではないのかもしれない。
その手に握られた、
ペンのほうにあるのかもしれない。
問題は、あなたの意志ではなく、
その手のペンが「何を思い出させるか」にある。
奇妙な話に聞こえるだろうか。
だが、道具というものは、
僕たちが思う以上に、
脳と深く結びついている。
今夜は、その話をしたい。
道具が記憶している、「仕事のモード」

考えてみてほしい。
あなたは一日のうちで、
そのボールペンを何十回、握っただろうか。
会議の議事録。
客先で書く見積もり。
部下へのメモ。
稟議書へのサイン。
そのペンは、いつも
「処理すべきタスク」とともにあった。
速く、
正確に、
効率よく。
そうやって握られ続けたペンは、
いつしか、あなたの脳の中で、
ひとつの合図(アンカー)になっている。
——このペンを握ったら、仕事だ。
戦闘モードだ、と。
これは比喩だが、
的外れな比喩ではないと思う。
人の脳は、繰り返し結びついたもの同士を、
勝手に連想でつなげてしまう。
ある曲で、昔の記憶がよみがえるように。
ある匂いで、実家の台所が立ち上がるように。
道具もまた、そういう「引き金」になる。
だとすれば、だ。
夜、一日の戦いを終えて、
ようやく自分と向き合おうとする。
心の内を、静かに書き出そうとする。
そのときに握るのが、
昼間ずっと「戦闘モード」の合図だった
ペンだったなら——
脳は、どう反応するだろうか。
おそらく、こう身構える。
「なんだ、また仕事か」と。
内省という、
本来もっとも無防備であっていいはずの時間に、
脳は効率とタスクの構えを取ってしまう。
ゆっくり自分の感情を探るはずが、
無意識に「早く終わらせよう」と
急いでしまうのだ。
あなたの心が弱いからではない。
昼も夜も同じペンを握るせいで、
脳が夜の時間までを「新しい仕事」と
誤認し、身構えているからだ。
日常と、非日常。
そのあいだに、境界線が引かれていない。
それが、静かな悲劇なのである。
道具を変えるとは、
まず、昼と夜のあいだに
「境界線」を引き直すことだ。
昼の道具と、夜の道具を、
はっきりと分ける。
ただそれだけのことで、
脳は「これは、さっきまでとは違う時間だ」と
少しずつ認識しはじめる。
100円のペンを握る自分と、特別な一本を持つ自分

道具には、もう一つ、
見過ごされがちな働きがある。
それは、
「自分で自分を、どう扱っているか」を
静かに映し出す、鏡としての働きだ。
たとえば、百均で買ったボールペン。
インクの出も、書き心地も、悪くはない。
実用としては、十分だ。
だから、百均のボールペンが悪いわけではない。
だが、
仕事でも、
自分と向き合う時間でも、
いつも同じ“間に合わせの一本”を
使っていることに、
自分自身への無関心が表れることがある。
あなたにも、
思い当たる節は、ないだろうか。
日中、他人のためには、
きちんとしたスーツを着て、
丁寧な言葉を選ぶ。
それなのに、夜、
自分自身と向き合う時間には、
いちばんぞんざいな道具を、
無造作に手に取っている。
そもそも、あなたの自尊心は、
もう十分すぎるほど、すり減っている。
職場では先日、十歳も年下の後輩が、
あなたより先に、課長の椅子に座った。
祝いの言葉を口にしながら、
腹の底で、焦りがちりちりと音を立てたのを、
あなたは知っている。
家に帰れば帰ったで、あなたの居場所は、
いつのまにか狭くなっていた。
「ソファで、スマホ片手にテレビを見ている人」。
家族の目に映る自分が、いつからか、
その程度の存在になっていることにも、
薄々、気づいている。
そうやって、昼も、夜も、
少しずつ削られてきた自尊心だ。
その最後のひと削りを、一日の終わりの机で、
ほかならぬあなた自身が、
使い捨ての道具を握って、行っている。
握るたびに、
「自分は、この程度の扱いがお似合いの人間だ」
という低い評価を、静かに塗り固めてしまう。
——そう考えると、これはもう、
ただの筆記具の話では、済まなくなってくる。
では、ほんの少しだけ、
良い一本を持ったとき、何が起きるか。
数千円、あるいは数万円の、手に馴染む一本。
それを手に取るとき、
人はどこかで、背筋が伸びる。
——自分は、
これを扱うにふさわしい人間だ、と。
たかがペン一本で、と笑わないでほしい。
日中、他人のためにすり減らした自分に、
良い道具をひとつ手渡す。
それは、まぎれもなく、
上等な自己投資なのだ。
誤解のないように言えば、
これは万年筆に限った話ではない。
書き味の良い、
少し値の張るボールペンでも構わない。
大切なのは値段ではなく、
「自分のために、良いものを選んだ」
という、その事実のほうである。
あなたが自分に手渡す道具は、
あなたが自分をどう扱っているかの、
静かな答え合わせだ。
あえて、「壊れやすい道具」を選ぶという逆説

ここまでの話なら、
丈夫で質の良いボールペン一本でも、
事は足りる。
だが、僕があなたに、あえて
万年筆という選択肢を差し出したい理由が、
もう一つある。
それは、万年筆が
「とても繊細で、手のかかる道具」だからだ.
正直に書いておく。
万年筆は、面倒な道具である。
インクを入れてやらなければ書けない。
しばらく放っておけば、
インクが乾いて詰まる。
ときどき、洗ってやる必要もある。
そしてボールペンほど雑には扱えない。
うっかり机から落とし、
ペン先が硬い床にあたって曲がれば、
もう、まともに書けなくなることさえある。
高価なボールペンなら、
少し落としたくらいでは、
そう簡単には壊れない。
その意味で、万年筆は、
明らかに「不合理」な道具だ。
だが
——この「不合理さ」の中にこそ、
静かな価値があると、僕は考えている。
壊れやすい道具は、
あなたに、丁寧な所作を要求する。
乱暴には、置けない。
ポケットに無造作に
突っ込むこともできない。
ペン先を、そっと紙の上に出し、
書き終えれば、また丁寧にしまう。
その一連の、少し手間のかかる所作。
それは裏を返せば、
あなたが「何かを、丁寧に扱っている」時間
そのものなのだ。
そして、思い出してほしい。
あなたは日中、
いったい何を、丁寧に扱ってきただろうか。
取引先を。
上司の機嫌を。
部下の失敗を。
家族の顔色を
——そのすべてが、
「自分以外の誰か」ではなかったか。
夜、その繊細な一本を、
自分のためだけに、ゆっくりと、丁寧に扱う。
それは、ずっと後回しにしてきた自分自身を、
ようやく、丁重にもてなす行為に、
静かに重なっていく。
壊れやすい道具を、
壊さないように、丁寧に扱う。
その手間そのものが、
すり減った自分を、
丁重にもてなす儀式になる。
繊細なものを、きちんと扱えている自分。
その事実が、
削れた自尊心を、静かに立て直していく。
繊細な道具を、きちんと扱えている。
そのささやかな事実が、
「自分も、まだ捨てたものではない」という、
小さな誇りを連れてくる。
それはたぶん、大声の自己肯定などより、
ずっと深いところで、あなたを支えるはずだ。
なぜ、「自分を大切にする道具」だと、書くことが続くのか

ここまで読んで、あなたは、
こう思ったかもしれない。
道具で自尊心が少し戻るのは、分かった。
だが、それが「書き続けられること」と、
どうつながるのか、と。
もっともな問いだ。
順を追って、答えたい。
理由は、二つ、ある。
ひとつ。
その時間が、
脳にとっての「ご褒美」に変わるからだ。
さきほど書いたとおり、昼と同じペンで書く時間を、
脳は「タスク」として処理してしまう。
タスクとは、要するに、片づけるべき負担だ。
負担であるかぎり、
脳は隙あらば、そこから逃げようとする。
それでは続くわけが、ない。
だが、特別な一本で、自分を丁寧にもてなす時間は、
意味あいが、まるで違う。
それは、一日じゅう他人のために働いた自分への、
ささやかな慰労になる。
誰にも邪魔されない、静かなご褒美の時間だ。
そして、人というのは不思議なもので、
「心地よかった」と感じた時間には、
気合いを入れずとも、自然と、
また戻ってきてしまう。
歯を食いしばって続けるのではない。
心地よいから、また明日も、その席に座りたくなる。
——これが、一つめの理由だ。
もうひとつ。
あなたのセルフイメージが、
静かに書き換わるからだ。
100円のペンを握り、
「どうせ自分は、三日坊主だ」と思っているうちは、
行動もまた、
その自己像のとおりに、途切れていく。
人は、自分で思い描いた自分の姿から、
そう大きくは、はみ出せないものだからだ。
だが、繊細な一本を、毎晩、丁寧に扱う。
その所作を重ねるうちに、
あなたの中に、ひとつの誇りが生まれてくる。
——自分は、自分の時間を、
きちんと大切にできる人間だ、と。
そうなったとき、
夜、ノートを開くという行為は、
もう「頑張って続けている努力」では、
なくなる。
歯を磨くのと同じように、
それをしなければ、一日が締まらない。
凛とした自分であるなら、当然そうする、
という、ごく当たり前の振る舞いへと、
変わっていくのだ。
だが「自分を大切にする道具」は、
書く時間を脳の”ご褒美”に変え、
あなたのセルフイメージそのものを
「自分の時間を大切にできる人間」へと
書き換えていく。
そうなればもう、
書くことは、頑張ることではない。
凛とした自分の、当たり前の所作になる。
道具から始まった、ささやかな変化。
それが、脳の受け取り方を変え、
やがて、あなた自身の像を、静かに変えていく。
遠回りに見えて、
これがいちばん、確かな道なのだと、
僕は思う。
結び:道具を変えることは、自分への接し方を変えることだ

道具を変える、というのは、小手先の話ではない。
昼間ずっと仕事で使ってきたペンを
夜にも使ったら、
仕事の感覚を引きずることはあるだろう。
自分に手渡す道具を通して、
「自分をこう扱う」という態度を、
そっと入れ替えること。
繊細な一本を丁寧に扱う所作の中で、
後回しにしてきた自分自身を、
もてなしてやること。
つまり、道具を変えるとは、
あなたが、あなた自身への接し方を、
変えるということなのだ。
もし、その一本を選ぶのなら。
万年筆は、たしかに手のかかる道具だが、
いまは、驚くほどスマートな一本もある。
たとえば、パイロットのキャップレスのように、
ノック式でペン先が出る、
キャップのいらない万年筆。
見た目は上質なボールペンのようで、
スーツの内ポケットにも、自然に収まる。
派手さはない。
だが、静かに、自分だけの時間を差し出してくれる
そんな顔をした一本だ。
今夜、たった15分でいい。
昼の喧騒とは違う、
あなただけの一本を手に取り、
ペン先を、そっと紙の上に出してみてほしい。
うまく書く必要はない。
ただ、その道具を丁寧に扱いながら、
今日の自分を、
少しだけ、もてなしてやればいい。
その静かな15分の積み重ねが、
いつか、すり減ったあなたを、
もう一度、凛とした自分へと連れ戻していく。
道具を変えることは、
その最初の、
そして、確かな一歩なのだ。
少なくとも、僕はそう信じている。


コメント