万年筆の「ハート穴」はなぜ必要か?元設計士が読み解く、折れない心の作り方

人間関係というのは、摩擦だと思う。

上司の理不尽な言葉が、皮膚に触れる。

部下の言い訳が、神経を逆撫でする。

家に帰っても、妻の一言が、疲れた心に引っかかる。

摩擦がない人間関係なんて、この世に存在しない。

問題は、その摩擦にどう耐えるか、どう逃がすか、だ。

万年筆のペン先も、常に摩擦の中にある。

紙という現実に触れるたびに、金属は摩擦を受け続ける。

それでも、ペン先は言葉を紡ぎ出す。

折れることなく、しなやかに。

なぜ、ペン先はそんなことができるのか。

その答えが、ペン先に刻まれた二つの構造の中にある。

それが「ハート穴」と「ペンポイント」だ。


目次

ハート穴:圧力を逃がす「余白の設計」

装飾ではない。これは「圧力を逃がす出口」だ

万年筆のペン先をよく見てほしい。

スリット(切り割り)の根元に、小さな穴が開いている。

ハート型のものが有名なので「ハート穴」と呼ばれているが、円形や涙型のものも多い。

これを初めて見た人は、装飾だと思うかもしれない。

ペン先にあしらわれた、ちょっとした「意匠」だと。

しかし、それは違う。

これは、圧力を逃がすための「設計」だ。

万年筆で文字を書く時、ペン先には筆圧がかかる。

金属がしなり、わずかに開く。

その「しなり」が、万年筆特有の書き心地を生む。

しかし、しなりには限界がある。

限界を超えた圧力が一点に集中し続けると、金属はいつか亀裂を起こす。

ハート穴は、その圧力を逃がすための「出口」だ。

スリットに沿って加わった力が、この穴に向かって分散される。

一点に集中させない。

そうすることで、ペン先は折れることなく、何度でもしなることができる。

何百年も建ち続けてきた建物が、証明している

日本の古い建築を思い出してほしい。

神社や古民家の柱は、石の上にただ乗っているだけだ。

石と柱は、固定されていない。

最初にそれを知った時、僕は少し驚いた。

固定しない方が、弱いんじゃないか。

そう思ったからだ。

でも、逆だった。

地震が起きた時、固定されていない柱は、揺れに合わせて石の上でわずかにずれる。

そのずれが、揺れを逃がす。

ガッチリ固定してしまうと、逃げ場を失った力は、柱そのものを折ろうとする。

逃がすことで、折れない。

何百年も建ち続けてきた建物が、そのことを証明している。

ハート穴の発想と、全く同じだと思った。

逃がすことは、弱さではない

翻って、あなた自身のことを考えてみてほしい。

朝から夜まで、圧力を受け続けている。

上司から、部下から、家族から。

その圧力を、全部真正面から受け止めていないか。

真面目な人ほど、そうしてしまう。

逃げることを、弱さだと思っているから。

でも、ハート穴は教えてくれる。

逃がすことは、弱さではない。

しなやかであり続けるための、緻密な「設計」だ。

ペン先の「心」に刻まれた、もう一つの意味

ペン先は、万年筆の心臓部だ。

その心臓部であるペン先の中央に刻まれた穴だから、
「ハート穴」と呼ばれるようになったのかもしれない。

由来は定かではない。

でも、僕はそういう解釈が好きだ。

心臓部に刻まれた、小さな「心」。

では、あなた自身の心に、その穴はあるだろうか。

圧力を逃がす場所。

力を分散させる余白。

一点に集中させない、「出口」。

それは、愚痴をこぼせる友人かもしれない。

誰にも見せないノートかもしれない。

一人で歩く、帰り道かもしれない。

形は何でもいい。

ただ、その出口がないまま圧力を受け続けると、いつか金属は亀裂を起こす。

人間も、同じだ。


ペンポイント:摩擦に耐え、あなたに寄り添う「受容の金属」

紙という「研磨剤」に、圧倒的な硬さで挑む

ペン先の先端を、さらに拡大して見てほしい。

ペン先はほとんどが金やステンレスでできているが、
紙と直接触れる一番先端の部分だけは、全く別の金属が溶接されている。

イリジウムを主成分とした合金。

これが「ペンポイント」だ。

イリジウムは、地球上に存在する金属の中でも最も硬い部類に入る。

一般的な金属加工の技術では削れないほど硬く、
高い技術力を持つ職人でなければ、このペンポイントを整えることができない。

なぜ、そこまで硬い金属を使うのか。

紙は、想像以上に研磨剤だ。

柔らかく見えても、繊維が複雑に絡み合った紙の表面は、
金属を少しずつ削っていく。

ペンポイントがなければ、
ペン先はすぐに摩耗し、書き心地が変わってしまう。

だから、圧倒的な硬さで現実の摩擦に耐える。

何年もかけて「あなただけの形」になっていく

しかし、ここからが面白い。

イリジウムほどの硬さを持つペンポイントでも、
何年も使い続けることで、少しずつ削れていく。

問題は、どう削れるかだ。

ペンポイントは、使い手の筆記角度や筆圧、
持ち方の癖に合わせて削れていく。

右に傾けて書く人のペンポイントは、右側が少し削れる。

寝かせ気味に書く人のペンポイントは、腹の部分が削れる。

何年も使い続けた万年筆は、その人だけの形になっていく。

これを「育つ」と表現する万年筆愛好家がいる。

僕は、その言葉が好きだ。

道具が、使い手に寄り添う形に変わっていく。

使い手もまた、その道具に合わせて書き方が変わっていくこともあるだろう。

人と道具が、摩擦を経て、互いに馴染んでいく。

「すり減った」のか、「育った」のか

これは、人間関係と似ていると思う。

最初は摩擦だらけだった相手と、長い時間をかけて少しずつ馴染んでいく。

尖っていた部分が削れ、相手の形に合わせて、自分も変わっていく。

それを「すり減らされた」と言うこともできる。

でも、「育った」と言うこともできる。

どちらに見るかで、その摩擦の意味が変わる。

ペンポイントは、圧倒的な硬さで現実の摩擦に耐えながら、
何年もかけて使い手の形に寄り添っていく。

強さと受容が、あの小さな金属の中に共存している。


しなやかに受け流し、確かに刻む

ハート穴は、圧力を逃がす。

ペンポイントは、摩擦に耐えながら、使い手の形に育っていく。

この二つが、ペン先の中に共存している。

逃がすことと、耐えること。

余白を持つことと、現実と向き合うこと。

どちらかだけでは、うまくいかない。

逃がすだけでは、何も刻めない。

耐えるだけでは、いつか折れる。

その絶妙なバランスの上に、万年筆の構造美がある。

そして、それはそのまま、社会の中で生き抜く大人の姿だと思う。

理不尽な圧力は、正面から全部受け止めなくていい。

ハート穴のように、どこかへ逃がす出口を持っていい。

でも、現実から逃げ続けることはできない。

ペンポイントのように、摩擦の中で少しずつ、自分の形を作っていくしかない。

万年筆を走らせるたびに、あの小さなペン先がそのことを思い出させてくれる。

しなやかに受け流しながら、確かに刻んでいく。

それが、凛とした大人の生き方だと、僕は思っている。

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この記事を書いた人

店主のすぎやまです。
僕は、武蔵野美術大学 建築学科卒後、家具メーカーにて家具の商品開発や設計の仕事に従事して来ました。その後、福祉業界に転職します。
家具メーカーでは、「モノ」と向き合い、福祉業界では「ヒト」と向き合って来ました。
僕は、良いデザインは、思想・設計・意匠」が有機的に融合していると感じます。
また、そのことは、ヒトの行動にも同じことが言えるのではないかと考えるようになりました。
特に、行動を継続するためには、なぜそうするのか?という意思(思想)とやり易い仕組み(設計)が必要です。
その結果として、行為そのものに充足感が得られ、所作が美しくなる(意匠)と考えるようになりました。

『凛筆』は、万年筆という「道具」と、習慣化の「仕組み」を使って、あなたの毎日を美しく整える(デザインする)ための場所です。

13,000文字に込めた、僕のこれまでの経歴と「店を始めた本当の理由」をぜひご一読ください。

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